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TOSSランドNo: 3701563 更新:2012年12月30日

長篠の戦いの勝因


1 授業案

説明1:

1575年に三河(愛知県)で戦が行われました。長篠の戦いといいます。その時の合戦の様子を表した絵です。
左側が織田信長、徳川家康の連合軍。3万8人千。
右側が、当時最強の軍隊だと言われていた武田の騎馬軍団。1万5000人。
勝ったのはどちらだと思いますか。織田信長、徳川連合軍が勝ったのです。

発問1:

連合軍の勝因はなんだと思いますか。この絵の中から勝因を考えましょう。

・人数が多かったから勝てた。                        

・地形が有利だった。                            

・木の柵があるから勝てた。                         

・鉄砲を大量に使った。    

説明2:

この当時の鉄砲を火縄銃といいます。信長は火縄銃を3000丁も用意しました。この戦までの鉄砲最高記録が300丁です。
敵の突撃に備えて、前日までに柵を作っていました。
人数も武田軍の三倍です。

指示1:

人数が少ない方が勝つ方法があります。挟み撃ちなどの罠をしかける。または、柵や城に閉じこもって戦う。なのに、武田軍は3倍の人数に突撃をしていったのです。それもこの絵からわかるのですよ。探しましょう。

資料集にある、長篠合戦絵巻から考えさせる。

説明3:

それも、この絵の中からわかるのですよ。右下に「五」のマークの旗がありますね。同じ旗が絵の中にあります。どこでしょう。
徳川の陣地にあるのです。
徳川軍が朝のうちに後ろに回り込み武田軍を挟み撃ちにしているのです。

※「五」のマークの旗印は、徳川家康の軍の伝令がつけていた旗である。徳川の陣の中に「五」のマークの旗がある。右側の長篠城付近にも「五」の旗がある。これは、酒井忠次が指揮する別働隊が、武田軍を挟み撃ちにしているからである。この挟み撃ちによって、武田軍は無謀な突撃を繰り返すこととなる。            

                                      

説明4:

信長は戦争だけではなく、他にも画期的なことをたくさんやっています。どんなことをやって来たか調べてみようね。   

2 三千挺の鉄砲・三段撃ちの嘘

 長篠の合戦で、※「鉄砲の三段撃」によって信長軍が快勝したと習った人は多いのではないだろうか。『21授業のネタ「有田社会・高学年」』(日本書籍)の中でも三千挺の鉄砲での三段撃の授業を紹介している。これは、信長の勝利を劇的にするために脚色して伝えられたもので、近年は三段撃ちは無かったこと考えることが一般的になっている。

 

(1)資料の信憑性

①歴史上、三千挺の鉄砲の3段撃ちが初めて記録されていたのは「甫庵信長記」である。この筆者は、堀尾吉晴(1564~)によって書かれた。堀尾吉晴は、信長が死んだ年に19歳であった。彼が「信長公記」を下敷きに書いたものである。

②「信長公記」は太田牛一によって書かれた。大田牛一は信長の家臣で桶狭間にも参戦している。この「信長公記」には三千挺の鉄砲・三段撃ちは書かれていない。

③読み物として、「甫庵信長記」の方が面白いため一般に流布した。

 

(2)戦術としての欠陥

①鉄砲を撃てる状態にする時間は、それぞれの技量によってことなる。三千挺の千

挺づつ同時射撃の場合、一番遅い人に合わせて発砲しなければならず時間的ロスが

生じる。

②敵が目の前に来たグループだけが、鉄砲を発砲するほうが効率的である。敵は、同時に柵へと近づいてくるわけではない。千挺同時射撃をおこなうと、ほとんどの鉄砲がまったく敵がいない場所を撃っていることになる。

③3人、一組でそれぞれの判断で鉄砲を撃ったほうが効率が良い。

④3千挺の同時撃ちをするためには、訓練に多くの時間を必要とする。

 

(3)三千挺の同時撃ちは不可能

①午前6時から午前10時(午後2時との説も)の長い時間に戦が行われている。

千挺同時撃ちをそんなに長く続けたとは考えられない。

②轟音のする鉄砲を同時に発射できるように号令をかけることは不可能。

③この当時の鉄砲は、一発撃つと1mもの火を噴き出し、銃口があつくなってしま うものだった。連射は無理。

④戦の当時は雨上がりで、信長の陣は田んぼの中である。ぬかるんだ田んぼで、思

い鎧と5キロ以上の鉄砲をもっての列の移動は5回が限度。(NHK教育「人間日本史」の実験)

⑤鉄砲の撃ち手はあちこちから借りだした寄せ集めだったので一斉射撃の意思統一は無理。

※『信長公記』(太田牛一著・・・信長より7歳年長、青年期~壮年期にかけて信長の親衛隊として仕え、その後事務官僚となる。一方で軍記作家としても活躍、江戸初期の慶長15・1610年に死去)に書かれていたことがもとになって一般に信じられるようになったものである。

 信長は鉄砲の大量投入だけでなく、木の柵、地形の利用、挟み撃ちなどで勝った。それを資料から読み取らせる。

 

 

(主な参考資料)

有田和正『学級づくりと社会科授業の改造・高学年』(明治図書、1985年)

藤本正行『信長の戦国軍事学』(宝島社、1993年)

宇田川武久『鉄炮伝来』(中公新書、1990年)

高柳光壽『新書戦国戦記6長篠の戦』(春秋社、1978年)

歴史教育者協議会『世界史から見た日本の歴史38話』(文英堂) 

鈴木眞哉『鉄砲と日本人』(洋泉者)

池上祐子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』(講談社)

NHK歴史誕生取材班『歴史誕生1織田ハイテク軍団天下を制す 長篠の合戦』(角川書店) 


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