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TOSSランドNo: 9762459 更新:2012年12月28日

武士の信頼を集めた源頼朝


鎌倉幕府についてある程度知識が必要です。
教科書などを使った後に、子どもたちに聞かせて下さい。

 鎌倉幕府を開いた源頼朝は武士の最高の位である征夷大将軍にまでのぼりつめます。
 しかし、頼朝には、昔から仕えてきた家来は一人もいませんでした。頼朝の一族は平治の乱に敗れ、父の源義朝とともに殺されていたからです。
 運良く命だけは助けられた頼朝でしたが、伊豆に流されてからはずっと平氏の監視下におかれていました。独りぼっちの身だったのです。
 その彼を助けたのが北条氏、三浦氏、千葉氏、上総氏といった東国の有力な武士団でした。
 東国の武士団が頼朝を助けたのは、自分たちの利益を守ってくれる政権が欲しかったからです。
 武士の館を思い出して下さい。彼らは、館のまわりを堀や塀で囲い常に戦いに備えていました。こうした備えを続けているのは、敵の侵略から自分たちの土地を守るためです。
 武士の収入源は、自分の領地から収穫される米です。土地を奪われることは、その収入源をたたれることになります。
 それだけではありません。下級武士の多くは平時は農業を行っていたのです。祖先から受け継いだ大切な土地を耕したり、新しい農地を開発したりしながら、作物を育てていたのです。ですから土地に対する愛着は非常に強いものがありました。
 こうした大小の武士団が、領地の奪い合いや領地の境をめぐる争いを続けていたのです。親子何代にもわたる戦いを続けている武士たちも少なくありませんでした。
 ですから彼らの一番の望みは、こうした紛争を仲裁し、自分たちの土地を「安堵」つまり、持ち主としての権利を保障してもらうことでした。
 ところが、期待を寄せていた武士の一団である平家は、都の生活に慣れるにしたがって貴族のようになってしまいました。
 そこで、どうしても武士のための政権が必要だったのです。
 さて、平家を滅ぼして鎌倉に幕府を開いた頼朝でしたが、当面の敵は京都の後白河法皇でした。朝廷は、平家に一時的に政権を奪われはしましたが、多くの荘園を持ち勅命(天皇の命令)という形で全国に命令を出すことができました。武士はその朝廷に仕えているという身分だったのです。
 また、京都から見れば、頼朝がいた関東地方は、大変な田舎でした。「馬の糞の臭いがする」「犬がたって歩いている」などと関東の武士をあざける京の人たちもいました。
 こうした難しい状況の中で、武士の権利を認めさせようとしてできたのが鎌倉幕府です。
 その幕府を開いた頼朝が武士の指導者として優れていたのは、バランス感覚です。頼朝は、朝廷を徹底的に破壊するような行動はとりません。
 一方に公家の朝廷があり、もう一方に武士の幕府があるという二重の構造を作り上げます。
 国家組織を作る時もそうです。義経を征伐するという名目で、全国各地に守護や地頭を配置します。すでに朝廷によって国司が全国に配置されているのですから、これも二重の構造となります。こうして2つの構造を併存させ、徐々に権限を幕府のものにしていこうとしたのです。また、土地をめぐる武士たちの紛争もたくみに解決していきます。頼朝が武士たちに与えた安堵状は、非常に信頼されていました。
 ところで、鎌倉時代で圧倒的な人気を持つのが源義経です。
 一ノ谷の戦い、屋島の戦いで次々と平氏を破り、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させてしまった義経はまさに戦の天才でした。
 しかし、義経は、政治家としては兄の頼朝には全くおよびません。頼朝と義経を対立させることをねらっている朝廷から官位をもらってしまうなど、軽率な行動が目立ちました。そして、結局は、かくまわれていた藤原の兵によって殺されてしまうのです。
 さて、頼朝が天才的な政治手腕を発揮している間は、頼朝を支える東国武士団も黙ってしたがっていました。しかし、彼の死後は、違います。頼朝の嫡子である頼家が、将軍にふさわしくないと見ると将軍の権限を奪い取り、暗殺という強硬手段に出ています。
 弟の実朝もそうでした。京都への強いあこがれを持つ実朝は、東国武士団にとっては次第に邪魔な存在となっていきます。その結果、鎌倉武士の守護神が祭ってある鶴岡八幡宮で暗殺されるという悲劇が起こります。
 こうして源氏は3代で途絶えてしまいます。一番最初にも言いましたが、東国に土着の武士団を持っていなかったのが源頼朝の悲劇だったのです。
 その後は、東国の有力な武士団の長によって政治が進められます。将軍は自分たちの言いなりになる飾りにしかすぎなくなったのです。これが執権政治の始まりです。
 東国の武士団にとって将軍とは、自分たちの利益を守ってくれるためのものであって、その仕事ができないとなれば無用の長物だったのです。しかし、この合議制もそう長くは続きませんでした。誰が実権を握るかをめぐっての争いが絶えなかったからです。
 そして、武士団同士の紛争を勝ち抜き最終的に勝利を収めたのが北条氏だったのです。5代執権北条時頼の頃には、北条氏の独裁による政治が行われるようになっていました。


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