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TOSSランドNo: 4542346 更新:2012年12月28日

脳認知科学から見た向山型国語のキーワード


1 緊張場面

日本の脳研究の中心である理化学研究所が平成12年3月7日に次のようなプレス発表を行った。「脳の発達には抑制性の刺激が不可欠であることを発見 ~脳も甘やかすと発達しない?~」。スポーツの世界では試合をするごとに強くなるということがある。緊張場面を経験することによって逆に上達するということである。向山型国語でも漢字スキルの確認の場面で向かい合わせて空書きをさせる場面がある。また、音読指導で一人一人読ませる場面がある。このような緊張場面の中で子どもの学力がつき成長していくというのは、脳科学の面からも証明されている。

2 写す

脳科学者は、スポーツも国語の学習も同じものとして見る。つまり、どちらも何らかの情報を得て、それを脳で処理し、表現するのである。スポーツであれば身体運動として表現する。国語であれば文章であり、発表である。このように考えるとスポーツでは基本となる動作を何度も何度も繰り返す練習をやる。基本動作を正しく繰り返すことに意味がある。素振りにしろ、イメージトレーニングにしろ同じことである。しかし、従来の国語の授業では、この基本を正しく繰り返すという学習がまったくといってよいほどなかった。あるとすれば漢字ぐらいであったが、子どもによっては部首だけを書いて次に作りというようにやるこどもも多かった。うつしまるくんにしろ写すのも大事なお勉強ですにしろ正しい基本となるものを繰り返し繰り返し写すことは、スポーツの世界では当たり前なのである。脳科学はスポーツも国語も同じ原理であることに気づかせてくれた。有名詩文の暗唱も同じ原理である。

3 絵に描く発問

向山型国語の発問で有名なのが絵に描かせる発問である。「春」(安西冬衛)、「それがしは案山子にて候雀殿」(夏目漱石)がその典型例である。人間が思考するには、頭の中に限定された容量がある。「心の黒板」とも表現される。我々が仕事をする時に机の大きさに限界があるのと同じである。個人差があるがだれしも無限大に容量があるわけではない。その限られた容量の中で保持できる物体は4個程度にすぎないという研究成果が発表されている。つまり、絵に描く発問をする場合は、そこに描かせる物体は4個以内であることが重要な意味を持つということである。この研究成果は1997年に発表されたものであるが、すでに向山先生の実践では見事にクリアーされているのである。だからこそ子どもが熱中して授業に参加し、知的好奇心をゆさぶることができるのである。向山先生の発問のすばらしさが脳認知科学者によって証明されているのである。

4 意味調べ

我々を含めて多くの教師は自分の学生時代に意味調べをさせられた経験を持つ。どの指導案にも意味調べの時間が設定されていた。しかし、現実には意味調べをしたからといって何もわかることはなかった。とにかく辞書を写しただけである。ほとんどの場合、できなかったものは、宿題とされたがだれもやってはこなかった。そもそも言葉の意味を知っているというのは、その言葉に対応する体験や経験が豊富にあるということである。だから言葉の意味を知っているかどうかは短文を作らせてみればすぐにわかる。短文が多く作れればその言葉の意味を知っているということである。辞書に書いてあることを写したら短文が作れるようになるか?否である。辞書には、定義と意味しか書いてない。体験のない子どもたちがそれを写したところで何も得るものはない。言葉の意味は子どもの体験に結びつけてイメージしやすい例えで話してやればよいのである。逆に意味調べが効果を発揮するのが向山型国語である。「やまなし」の実践で子どもたちは「青」という言葉の意味をノート1ページも調べて書いている。これは「青」の意味を知らないのではない。他に何らかの意味があることを前提として調べているのである。勘違いをしてはいけない。

5 スキル(コード:分析用語)

向山型分析批評では、作品を分析ための用語(話者、対比、イメージなど)が特徴である。これらの用語、言い換えるとスキルを身につけることによって子どもたちの学習能力は飛躍的に向上する。それは、脳認知科学の研究成果に「筆記用具や図が問題解決に及ぼす影響は大きい。」「記憶負荷がある場合はより認知負荷の少ないストラテジーを被験者は用いる。」「外的資源の利用によって問題解決が容易になるためには、新たなスキルの獲得がほとんど不要でなければならない。」「実在語を用いた方が、非単語を用いるよりも記憶範囲が大きくなるという語彙性効果もまた、音韻ループ課題の遂行に対する長期的知識の貢献を裏付ける。」といったことがある。つまり、スキルや用語を身につけていることによって子どもたちは学習の負担が減り、課題が大きければ大きいほど子どもたちはそのようなスキルを活用しようとするというのである。我々が車を運転しながらラジオのスイッチを入れたりウィンカーを付けたりといろいろなことができるのはスキルを身につけているからである。初心者にとってはとても大変なことである。

6 討論

討論は指導要領にも明記された。しかし、本当の討論はやはり高段の芸である。そこで、多くの教師は、デイベートを取り入れた。「給食ではパンがいいか、ご飯がいいか」といったくだらないテーマも流行した。人間の思考力と意識との関係は深い。つまり、本気でない学習では子どもの思考力は高まらないのである。脳認知科学の研究では、学習課題の負荷が高ければ高いほど脳のあらゆる領域が活性化するということが報告されている。では、そのような学習負荷はどうすればかけられるか。それは、発問以外にない。教材と葛藤した結果生み出された発問だからこそ、子どもたちの脳全体を活性化するほどの効果をもつのである。それによって行われる討論だからこそ子どもたちは賢くなるのである。脳をフルに使うということはアドレナリンを豊富に出すことになるのではないかと思う。

7 豊富な情報量の保障

人間が思考を活発にしている状態とは、「長期記憶が活性化した状態」であると言われている。長期記憶とは、我々の頭の中にある書斎の本棚のようなものである。また、「言語理解などの複雑な認知活動において、長期記憶がワーキングメモリの厳しい容量制限を緩和する役割を果たすことができる。」とも言われている。先にも述べたが我々が物事を考えるのは、限られた容量の中で行っているのである。机の上で仕事をしているようなものである。その時に調べたいことが書斎の本棚にきちんと整理されて保管されていれば仕事はスムーズに進むが、逆の場合は資料を見つけるだけで時間をとられてしまう。つまり、我々の頭の中の長期記憶の状態も同じだということである。情報が整理されて蓄えられていれば「検索手がかりとなるごくわずかの情報だけで多量の情報を組織的に保持しておくことができる。」ということになる。向山型国語の授業では子どもたちの普段からの読書指導(多用な分野の本がよい)や情報を豊富に与える(子ども同士の意見の発表もそうである)ことが学習の中にシステムとして位置付けられている。

8 すぐれた発問

人間の思考は、ある刺激によって引き起こされる。その刺激が多すぎても少なすぎてもだめなのである。これにはドーパミンの量がある適した量放出されることが条件なのである。この適度な刺激とは、まさにすぐれた発問であると言える。意見が多様にでるような、あるいはまっぷたつに分かれるような発問というのはいずれも子どもたちの脳を適度に刺激していると言える。登場人物の気持ちを問うようなくだらない発問は、適度な刺激とはなり得ていないのである。優れた発問や優しい問いをテンポよく出していく向山型一字読解指導などはまさにこの典型だと言えよう。そして、これらの脳神経は6才頃から形成されるということが分かっている。小学校に入学した頃から子どもたちは知的な発問を待っているのである。

9 有名詩文の暗唱

向山型国語では、有名詩文の暗唱も特徴的である。我々が言語を理解する時に「長期記憶に蓄えられている音韻知識が役立つ」という研究成果が報告されている。ここでいう音韻知識とは、「文法や暗唱によって身に付いた言語感覚」だと考えられる。指導要領でも何度も取り上げられているように言語感覚の指導というのは、とても難しい。短期間で育成できるものではない。生育歴における保護者とのコミュニケーションや家庭での会話、教師の言葉遣いなどあらゆるものが影響を及ぼしている。そのような中で何百年という時間を経て受け継がれている有名詩文には、我々が必要とする言語感覚というものが豊富に蓄積されていると考えられる。ちょっとした言葉遣いに違和感を持ったり、文章の表現にこだわりを持てるというのは、このような歴史を通して受け継がれてきた言語感覚を身につける以外にはない。そして、それは暗唱という文字のなかった時代の文化継承の手段が今にも生きているということでもある。

10 音読の重視

子どもたちが教材を読みながら内容を理解するというのは、登場人物や設定などの情報を「保持」しながら次々と情報を「処理」するという作業を同時に行うことによって行われている。そして、この「保持」と「処理」の容量は制限された容量なのである。したがって、うまく活用しないと容量オーバーをおこしてしまい、何が書いたあるのかわからないということになる。その前提となるのが音読がすらすらできるということである。音読がすらすらできるから内容が理解できているとは限らない。音読がすらすらできることによって登場人物の情報を「保持」したり、場面と場面の関係を捉えたりする「処理」に容量を使うことができるようになるのである。したがって、音読ができない状態では、何をやっても無駄だということになる。劇をやっても発表会をやってもペープサートを使っても無駄だということである。


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