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TOSSランドNo: 1456838 更新:2012年12月16日

「やまなし」授業記録


「やまなし」授業記録 

指示1:

はい,ではですね,この前のノートを開けなさい。

説明1:

前の時間は色のイメージを手がかりにしながら,こっちの端とこ
っちの端に何が来るのかというのを話し合いました。こっちの端に何が来て,こっちの端に何が来るのか,そのことによってこの作品は何を言いたいのか,ということですね。今日はそれの続きと考えてもらっていいのです。ええ,一番多かった意見は,勝さんに代表される,何でしたっけ?

(子ども) 生存競争の中に生があって死がある。

説明2:

 「生存競争の中に生があって死がある」というのが多数意見。次
に多かったのが,7名の藤井さんたちの,何だっけ?

(子ども) 平和があっても死があり,戦いがあっても生がある。

説明3:

「平和があっても死があり,戦いがあっても生がある。」という
のがありました。後3名さんの意見というのがありました。片方に戦争があって,もう片方に平和があるのだという意見がありました。後は一人ずつの意見ですね。最初が?

 恐怖と安心。

説明4:

 誰が言ったか覚えていますか。(子ども:赤岩君)赤岩君が言っ
ておりました,恐怖があって,反対の端に安心があるのだ。これは,若干意見が増えております,それから?

<ここで始まりのチャイムが鳴る>
(泉田) 弱肉強食と希望。

説明5:

 誰が言いましたか?(泉田:勝さん)弱肉強食というのが片方の
端にあり,もう片方の端に希望があるんだ,というのが勝さんの意見。最後にもう一つ残ったのが?

(子ども) 生を犠牲にして生がある。平和であっても死がある。

説明6:

 「生を犠牲にして生がある。平和であっても死がある。」誰の意
見でしたか?(子ども:峰君)峰君ですね。家で考えている間にこれ以外のやつが出てきたっていう人はいませんか?・・・おりません。では,今の段階でどの意見かというのを挙手によって人数分布を調べます。
 まず,これ「生があって死がある。」んだと言う人?はっきり挙げて。11名となります。次,「平和があっても死があり,戦いがあっても生がある」はい。6名となります。次,「戦争があって,平和がある」3名となります。「恐怖があって,安心がある」2名となります。次,「弱肉強食があって,希望がある」1名となります。「生を犠牲にして生があり,平和があっても死がある」んだと言う人?増えましたね。12となりますね。そうすると今日の段階で,多数意見は誰なんですか?(子ども:生を犠牲にして生があり,平和があっても死がある)はい。そうするとこちらの12名が多数意見ですので,「この意見」対「他の意見の連合軍」という形での討論になります。分かりますね。だから,こっち側の人はこっちに対して意見を言うんです。こっち側の人はこちらに対して意見を言うという形になります。分かった?(子ども:はい)

指示2:

 では,ノートに書いていると思いますけど,前の勉強を踏まえな
がら,新しいところに今から始める討論についての意見を書いて下さい。時間5分間です。始め。
 質問がある人?質問があったら手を挙げてくださいね。

<子どものノートを見てまわる>

説明7:

使っていい。今質問がありましたけど,家で書いてきたノートで
使いたい部分がありましたら,使ってもいいですけど,長ーくなると発表できなくなるからね,みんなが。だから部分的に使って下さい,家で書いてきたノートを。使うんだったら,抽出して部分的に使う。

<さらにノートを見てまわる>
 
説明8. 変わってもいいです。意見が変わるのはいいことです。
 自分の意見を主張してもいいし,相手のこの意見はおかしいということを主張してもいい。言い方はいろいろありますから。

時間半分経過。

30秒くらい。

大体,いいですか。「まだだ」という人・・・あと30秒。

指示3:

はい,じゃあ,だいたいそれぐらいで。教科書をちゃんと開いて,
文章を踏まえながら話し合いをしていくのです。やり方を最初に言っとくので,聞いておきさいね。注目。
 こちらが2人言ったら連合軍の方が2人言って,またこっちが2人,またこっちが2人という感じで,大体ね。大体そういう感じでやっていってください。分かった?(子ども:はい)はい,話し合いの形にしなさい。

では,こっちの12名の人から。

(岩田) この物語には,かわせみと魚が出てきます。かわせみと魚は生です。
かわせみは,魚をとります。しかし,死と思う人がいると思います。それを見方を変えると,かわせみは魚の代わりに生きていこうとなって,魚をとることです。だから,生を犠牲にして生があり,平和であっても死があるだと思います。
(貴之)僕の説の「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」の確実
性を述べる前に「平和があっても死がある,戦いがあっても生がある。」との違いを述べなけれならないと思います。この二つの説で注目してほしい所は,ただ一つで「平和であっても」というところと「平和があっても」というところです。この「平和で」と「平和が」がどう違うかというと,まず「あっても」を解体すると,「あっても」の「あ」は「ある」で,「あっても」の「て」は「そして」,「あっても」の「も」は「けれども」となります。つまり,「平和がある。けれども,死がある。」ということになります。だから,この文は「平和がある。けれども,死がある。」という形になります。一体この「が」は何を表しているのでしょうか。それは逆説です。つまり,「平和がある。けれども,死がある。」というふうにデクレシェンドしているのです。これは,ただ「やまなし」という世界を一方から絶望的に見ているだけで,つまりこのB説の人たちは,かにの目からしか生存競争を見ていないのです。ちなみにこの説はものすごく見方が狭くて,生存競争は,戦争ではないのです。戦争とは武力による国の間,この場合には両人同士ですけど,が??ることです。一方,生存競争は長く生きながらえることであり,多く子孫を残すことです。つまり子孫を残すためにメスを取り合うことは戦争であるということです。それは,確かにかにの目からみれば戦争であったかもしれないけど,「あっちで戦争があってるけど僕は生きている。ああよかった。」じゃ話しにならないと思います。次に僕の戦争のことを話します。「生を犠牲にして生」というのは,生存競争の中の弱肉強食ということを表しています。かわせみと魚にたとえると,かわせみは魚の命,つまり生を食べて生きています。つまり,生を殺して,生を得ています。「平和であっても死がある。」この文も「平和である。けれども,死はある。」という形に直すことができます。では,何を表しているのか。それは,なんとかなんとかという状態の意味です。つまり「平和」という状態があっても「死」があるということです。かにの子にとっての平和とは,生存競争を目の当たりにしないことで,しかしその平和を実行すると,当然何かを食べているかには自分が死んでしまいます。だから,平和,生存競争を行わないと自分が死んでしまうので,半強制的に生存競争を行わなければいけないのです。
(赤岩) ぼくは,峰君の説は違うと思います。それは,まず視点が,かにから
ではないからです。この「やまなし」という物語は永遠とかにからの視点でつづられています。だから,やはり,両端に来るものは何かと言われた時に,かにからの視点で考えた方がいいでしょう。それに反対意見がもう一つ,複雑すぎるからです。なぜ複雑だと駄目なのかは多分言われなくても分かるだろうから,省略します。という理由で峰説には反対,賛成できないわけで,やはり自分の説が正しいと思っています。
(泉田) 僕も赤岩君と同じで,「生と死」になると思います。どうして「生を
犠牲にして生があり,平和であっても死がある」が違うのではないかというと,そのわけは,何通りか出てきます。「平和であっても死がある。」これは,かにの思考によって出てくると思いました。これは意味が通じます。だけど,「生を犠牲にして生がある」これはどういうことなのでしょうか。生を犠牲にするということはそれに伴って死が生み出されます。そうなると,この文はおかしいと思ったので違うと思います。
(藤井) 泉田君が「生を犠牲にして生がある」のは分からないと言ったけど,
私が考える「生を犠牲にして生がある」というのは生を犠牲にするということは,その生というのはお魚の生で,魚が死ぬ,魚の生を犠牲にすることによってかわせみの生があるということなので,お魚の生を犠牲にして生があるということだと思います。
(原川) 私も藤井さんに賛成で,「生を犠牲にして生がある」ということは,
魚の生を犠牲にして,かわせみが生きるためのことだと思います。
(森田) 私は,「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」は大変
おかしいと思います。何故おかしいと思ったのかというと,「生を犠牲にして生があり」この文からおかしい。犠牲という言葉を辞典で引いてみると,「①ある目的のために,命,その他貴重なものを捧げること。②天災など不足の災難で生命をむなしく奪われること」と書いてあった。この犠牲は多分②の天災など不足の災難で生命をむなしく奪われること,こっちの方だと思う。ついでに生の方も調べてみる。①この世に生まれること。生きること。生命。生命と死。②自称。男子が自分のことを謙遜して用いる言葉。」分からない言葉が自称と謙遜の二つでした。調べてみると,自称「①実際はそうでない身分や肩書きを自分で称すること。 ②第一人称。自称代名詞。私,僕の類。謙遜「謙ること。」二つとも意味を調べてもよく分からなかった。よって意味調べはこれで終わることとする。私がおかしいと思ったのはこれだけなのでこれで終わる。
(中島) 僕も峰君のはおかしいと思う。「生を犠牲」とはあるけど,生を犠牲
とはどういうことか説明してほしい。「平和があっても死がある」それじゃあ平和じゃないと思う。でも,これならいいと思う。「平和じゃないから死がある」だったら別におかしくない。だからこれは違うと思う。
(貴之) 僕が言っている平和っていうのは,かにから見ての平和ていうことで,
かにから見たら,平和っていうのは生存競争を見ないってことだから,その生存競争を見ないということを平和っていうと,当然自分も生存競争をしてはいけなくなってしまうから,そういう平和を作ってしまうと,何かを食べているかには死んでしまうから,平和があっても死があるということにしました。
(赤岩) 峰君。あのこの意見に生存競争を含めて言っているんですか。
(貴之) はい。
(赤岩) それなら,峰君のその生存競争というのはちょっとこの「やまなし」
とかいう物語には重すぎると思います。なぜならこれはただ,小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯だからです。だからそんな重いことはちょっと言えないんじゃないんでしょうかねえ。
(貴之) でも僕の知っている限りでは,この宮沢賢治って言う人は,なんか軽
く書いているようだけどむちゃくちゃ深いことを言ってる人なので,いろんな物語もだけど,だからやっぱりこの「やまなし」もそうなのかなあと思ってこの??をしたんですけど。
(赤岩) でもやっぱりその,そういう解釈にしてはあまりにも複雑なんじゃな
いですか。
(貴之) それじゃあ,別に複雑でもいいんじゃないでしょうか。だって別に複
雑か,複雑じゃないかを,この宮沢さんが物語に取り入れるかは,もしかして取り入れるかもしれないし,たしかにそんな軽い物語にしてるかもしれないけど,やっぱり一つの物語でもいろんなものの見方があるから,別に僕は複雑で,君たちは複雑じゃないならそれでもいいんじゃないかなと思います。
(赤岩) でも,やっぱり宮沢さんとか作者が考えるなら日本全国に向けて出版
するとしたら,ただ小江原の峰貴之という人が正解とかになっちゃったら,そりゃあもう悲しいから,単純にして,あのう日本全国どこでも分かるなというような物語にしなければ,それはちょっと,そりゃあ。
(泉田) 今の意見で赤岩君と峰君が言っているんですけど他の人の意見はどう
ですか。
(美羽) 私は「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」というの
は違うと思います。理由は「死」とは,原川さんに聞いたんだけど,「死」とはやまなしが他人に食べられることで,やまなしの死にしたと言っています。だけど,この物語の中では両端にきているものということだから,やまなしの死とはならないはずだと思います。詳しく言うと,やまなしのこの物語ではやまなしがお酒になるのを待っている場面で終わるからです。この物語の先を見るとやまなしは食べられる運命だろうけど,物語の中の範囲ではやまなしは,まだ食べられていないから,違うと思います。
(藤井) 私は勝さんの言っているような死ではなくて,私の死というのは,や
まなしが川の中に落ちるということで,かにに食べられることじゃないと思います。
(川谷) 私は「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」という説
は違うと思います。確かに平和であっても死があるという考えはいいと思います。かわせみが魚をとる場合も戦争ではなくて平和であるし,魚が食べられるという点では死になるからです。問題は,「生を犠牲にして生がある」という文です。この文では,生を犠牲にするとありますが,これはどういうことなのでしょうか。先ほど藤井さんが説明してくれた通りだとしたら,「生を犠牲にして生がある」と「平和であっても死がある」という文は意味が同じだと思います。「平和であっても死がある」という文はかわせみと魚で説明したいと思います。かわせみが魚をとることは平和で,魚がとられる点では,魚が殺されると死だと思います。こう考えると峰君の意見は違うと思います。
(美羽) 藤井さんにさっき言われたけど,藤井さんの場合はやまなしが,川に
落ちてくることだけで死だけど,原川さんの場合では,やまなしがかにに食われる,食べられることが死だと言っているので,「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」という中でも意見が少し分かれているんじゃないかなと思います。
(岩田) 僕はそれらのことを含めて死と言っていると思います。
(藤井) 私もそうで一人一人の感じ方があるので,少し微妙な差はあってのま
とめ方がこれだと思います。
(小畑) 前言ったように確かに藤井さんたちがそのようなまとめ方をしてあっ
たとしても,それだったら逆に別の場面から死を取ることはできないので,それだと逆に意見がばらばらになるので,おかしいと思います。
(赤岩) それにやまなしが落ちたこととか食べられることを死ととらえるのは
ちょっと行き過ぎだし,それにやまなしが落ちたっていうのは,かにから見ればただの,お酒になって楽しいなってことだから,それを死としてとらえたらちょっとだめなんじゃないでしょうか。
(美羽) 私は赤岩君に付け加えで,平和はお酒になるのを待っているという浮
き浮きさだと思うんだけど,死がその中にあったら,ちょっとおかしいと思います。
(小畑) 赤岩君と勝さんが言ったようにやまなしが落ちたからと言って死んだ
とはならないし,かにが視点だったとして見てみたら,かにはただ「やまなしが落ちてきた。やったお酒になる。」という感じで,でも死という感情は文の中で見えていないので,違うと思います。
(貴之) 僕は「生を犠牲にして生がある平和・・」のみんなの言うことをまと
めたいんですけど。黒板借りていいですか。<前に出て板書する>確かに魚が食べられるのもやまなしが落ちるのも実はこの一つのことなんですね。こういうことがあったとしたら,ここに死があったと,死があって,ここに平和があるんです。生存競争をしないっていう。生存競争をしないていう平和があるんですね。でこっちに生存競争をする「生を犠牲にして生がある」ていう生存競争をする「生を犠牲にして」というのがあるんです。だから綱引きだと考えて下さい。ここに人がいて綱を引いているんですね。綱をそいで僕たちはいつも結構「死」寄りになっているんですね。それで死に負けたら,こっち死んでしまうからしょうがないから生を犠牲にしていて,この間に生がある。結局かわせみが魚を食べるのもこっちに行かないためだし,あのやまなしの木がやまなしを落とすのも冬に備えて,実を落とすためだし,結局こういう形になっていて,それでこの意見は全部こういう形になっています。
(中島) 他に意見はないんですか。
(小畑) 峰君が今言ったように,峰君から見たら全てがそういう風な形になっ
ているかも知れないんですけど他の人はどうなんでしょうか。
(藤井) 私もこういう風に見えます。
(赤岩) ぼくはただ,恐怖があって安心があってて,それだけです。
(泉田) 僕も赤岩君に似てて,こういう風にはならなくてやっぱり,生も生と
死があり,その中に生を犠牲にして生があるとそういう風になると思います。
(原川) わたしは初めは峰君の意見だったんだけど,今勝さんたちがさっきか
ら言ってるように,やまなしは落ちたけど話しの中ではまだ食べられてないし,赤岩君が言うようにかにからしてやまなしが落ちてくるのはお酒になる楽しさがあるので,今ちょっと分かりません。
(貴之) みんなやまなしのことを水面から下に落ちるとしか見ていないけど,
でも,やまなしの木から見れば,落ちた瞬間から自分の栄養を実にやらないために,やまなしから見れば実という自分の子どもにあたるものを捨てて,その自分の実という生を捨てて,自分が冬に備えて生きるといういことだから,ぼくはやっぱりやまなしでも「生を犠牲にして生がある」ということが当てはまって来るんじゃないかなと思います。
(福本) 私は峰君たちの意見を聞いてどっちかまだ悩んでいます。
(小畑) 峰君がいったように,やまなしから見て,やまなしは実を落として自
分の命を補うことはできるんですけど,逆に言えば,やまなしを落としたのが死というふうにはならないと思います。他にも実はあるでしょう。それにこの物語の中では実は一つしか落とされてないので,峰君が言ったように確かに,冬のために,自分のエネルギーのために実を落としたいうんなら,別にそれでもいいんですけど,そうじゃなくて実が落ちたのが風とかそういんだったら,峰君のやまなしはこっからみたというんなら,生を犠牲にして生がある」というのにあてはまらないし,そしてこの物語は一貫して,かにの視点から見ているので,ここに来て急にやまなしの視点で見るというのはちょっと。
(赤岩) それに峰君は「平和があっても死がある」というのは,ただ裏のこと
を言ってるだけで,表面的に,やまなしが落ちてきて,「ああ,なんかおいしそうだなあ。」というそういうところが,なんかちょっと峰君の離れているような気がします。
(川谷) 私もさっきの小畑君の意見に賛成で,峰君はやまなしからの視点にな
っているけど,このやまなしの物語は,ずっと,かにの視点できているから,かにの視点の方がいいと思います。
(森田) 同じ人ばかり言っているので他の人の意見を聞きたいです。
(土居) ぼくは,「平和があっても死がある。戦いがあっても生がある。」だ
ったけど,「生を犠牲にして生がある。」がどういう意味か,さっき話し合いを聞いていて分かったので,「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」だと思いました。
(小畑) さっき赤岩君が言ったことに関係あるんですけど,赤岩君の説の場合,
恐怖があって安心があるという場合,安心というのは,まあなんかで表されていて,恐怖というのは,かにが実際に「こわいよう。」とかかわせみが飛び込んできて,言うじゃないですか。「こわいよ,おとうさん。」とかなんとか言って。峰君,「生を犠牲にするというの・・・「平和があっても死がある。」の「平和」って言うのは,表面にでてきて,この物語の中で表現されているんですけども,でも「死がある」っていうのは,やまなしの視点で考えても,この物語の中で表現されていないので,おかしいと思います。
(美羽) 私はずっと前に言った小畑君の意見にも賛成で,「平和であっても死
がある」の中には,「平和であっても」というのはかにの視点からで,「死がある」というのはやまなしから見ているので,一つの文の中で二つの視点から見ているので違うと思います。
(福本) 勝さんもう一度言って下さい。
(美羽) はい。小畑君がずっと前に言った意見にも賛成で,「平和であっても
死がある。」ていうのは,「平和であって」ていうのはかにから見ていて,「死がある。」というのはやまなしから見ているとなるので,少し違うと思います。
(福本) ありがとうございました。
(岩田) ぼくは小畑君と赤岩君の意見で,僕は「生を犠牲にして生があり,平
和であっても死がある」に反対になりました。それは,この物語で,かにの視点で全部見ています。だから,かにを通して何かを言っていると思います。だから,僕は変わって,「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」つうのには反対になりました。
(小畑) 峰君が言うようにやまなしからの視点で見るとしても,この物語はや
まなしが犠牲にしたとかいうことは全然書いてないから,違うと思います。それと峰君はやまなしから見てて,でも他の人はかにから見てたとして,それで峰君がやまなしから見てるとしても,この物語の中で,あっ,峰君が言ってることは,この物語からはずれて,やまなしの,やまなし自体を見て考えているので,でもこの物語では,第1文に書いてあったように,「谷川の底を写した二枚の青い幻灯です。」と書いてあるので,ここは谷川の底なんですよ。上の方のやまなしのことじゃないので,違うと思います。
(赤岩) 前から聞きたかったんですけど,峰君が言う「平和」って何ですか。
(貴之) だから,「生存競争をしない」ということです。
(赤岩) でも,かにたちから見ても,生存競争をしなければ,生き残れないか
ら,それが平和だとか,それはちょっと。はい。
(小畑) 赤岩君とかの意見を聞いて,思いついたんですけど,生存競争という
のは,自分の考えの中で生存競争と思っていれば,生存競争なんですけど,かにから見てかにはただやまなしを食べるとか自分が生きれば,・・何て言うの,ただのんびり生きているだけで,やまなしが死ねば自分が助かるとか全然頭の中に入ってないので,峰君の意見はおかしいと思います。
(貴之) 別に頭の中に入ってなくても,僕が言ってるのは結果的にどういうこ
とをやっているかってことだから,別にかにの頭に何が入っていようが,この場合は,これは人間とか動物とかの本能のことを言ってるんであって,何かそういうかにとか結構関係ないんですね。
(小畑) それだったら,峰君の平和はこの物語に当てはまらないので,違うと
思います。
(貴之) どういうふうに当てはまらないんでしょうか。
(小畑) 「平和であっても死がある。」というのは今の言葉で,完璧にかにの
視点からはずれて,はずれたということが分かったので物語的に全然関係がないので,違うと思います。
(貴之) だから,「平和であっても」というのは,「平和という状態である。
けれども死がある。」ということで,そのかにじゃなくて,だから今もなんかバクテリアが体に入ってきて,そういう平和じゃないでしょ。平和じゃないていうのは,戦争していないだから,状態でしょ。だからそういう状態になったら死ぬでしょ。死ぬから,そういう意味で「平和であっても死がある。」ということです。
(福本) 確かめたいんですけど,岩田君はさっき言った時にこの物語は全部か
にの視点と言いましたよね。
(岩田) はい。
(福本) それだったら,その意見は違うと思います。この物語はかにの視点で
ないのもあると思います。たとえば,11ページの6行目に「かにの子供らは」とあります。かにの視点だったら,自分を「かにの子供らは」といわないと思います。
(岩田) 僕は言い換えます。ほとんど全体的にかにから視点を見ていると思い
ます。
(赤岩) 僕はちょっと岩田君とは違うんですけどやっぱりかにからの視点で,
そのかにの視点がそれが何か,何つうか,・・。例えば登場人物が色々出てて,その中でのかにからの視点とか・・。このかにの親子は「やまなし」の中で主人公的なものなので,視点と言うより,考えるときに,かにから見ての考えを採用した方がいいというようなことです。
(泉田) 僕は岩田君とはちょっと違うけど一応賛成で,福本さんが言った「か
にの子供らは」というのは,やはりこれも僕は岩田君に賛成で,全部がかにの視点から見ていると思い,この言葉というのは,登場人物のかにの父親から見て,やはりこのようになったのではないかと思います。
(小畑) みんなかにから見てとか言ってるんですが,これ極端に言えば,谷川
の底と谷川の上,陸になるんですけど,そいで,この底の景色・・,「かにのこどもらはよほど大きくなり」とあって,その下に「底の景色も」とあるんですよ。ということは,視点が底にあるんですよ,ほぼ,かにと同じ位置にあって,「かにの子供らも大きくなり」とあって,ほぼかにと同じ位置に視点があると思います。
(中島) 僕も泉田君と同じで,「かにの子供らはよほど大きくなり」は父親の
かにが言ったんだと思います。
(竹永) 私はその意見に反対です。それが父が言ってるんだとしたら,今まで
言っていた父の言葉が常体だったので,いきなり敬語で話すことはないんじゃないですか。
(小畑) 泉田君の意見とは反対で父親が言ってるとは思えないんですけど,そ
うだったとしても,視点をかにの近くの谷川の底と考えればおかしくはないと思います。
(泉田) 僕はさっき言った竹永さんの意見に反対で,これはさっき今,常体と
敬体にかわると言ったけど,これは今,かにの父親の思考によってかにの子供らは大きくなるというのは,かにの父親しかわからないし,これは,作者が,僕たちがこの物語を見ているからこのようになったと思います。そう思うとやはりこれはかにの父親から見たものだと思います。
(長岡) 泉田君のは多分違うと思います。これは青い幻灯なので5月と12月
をいきなり見ると,作者が「ああかにの子供らは大きくなったんだなあ」と思ってこういうふうに書いたんだと思います。
(赤岩) やっぱり僕はそのお父さんからの視点というのはちょっと違うと思い
ます。だってあの14ページの7行目辺りに,8行目に,あ,7・8行目に「お父さんのかには」ってあるから,そこまでいったら話者からの視点だし,だからお父さんからの視点というのはちょっとずれていると思います。
 
<ここで終わりのチャイムが鳴る>
 
(啓介) 赤岩君と一緒で14ページの11行目にお父さんの言葉に対して「な
るほどそこらの月明かりの水の中は,やまなしのいいにおいでいっぱいでした。」というのは,お父さんに対して話者がしゃべっているので,お父さんの中に入っているとは限りません。
(美羽) 私は赤岩君がさっき言った14ページの7行目に「お父さんのかには」
とあったり,11ページの6行目に「かにの子供らは」とあったりして視点がいろいろ変わっているけど一文の中に視点が二つ入ることはないので,「生を犠牲にして生があり,平和であっても死がある」は違うと思います。
 

指示4:

はい。時間が来ましたので,今の段階でどう考えるかというのを
次の行に一文で書きなさい。今どう考えるかですね。

説明8:

 まあよく参観の先生がいらっしゃってビデオまで回っている中で
発言しましたね。できた人書きながら手を挙げてごらん。発言できた人は手を挙げなさい。しっかりあげなさい。数えますから。16名ですね。はい。ありがとうございます。今の時点での考えは書けましたか。よくわけが分からなくなったという人?はい,正直でよろしい。

指示5:

じゃあ,その続きを家で書ことにします。討論はこれで終わりま
す。はい,机を元にもどしましょう。

指示6:

45分頃から先生方に感想をお伺いしますので,それまで休憩に
します。


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