TOSSランド

コンテンツ登録数
(2017/11/19 現在)

21450
TOSS子どもランド TOSSオリジナル教材 TOSS動画ランド TOSSメディア TOSS-SNS TOSS公式(オフィシャル)サイト
TOSS子どもランド
TOSSランドアーカイブ
TOSSランドNo: 6583066 更新:2014年01月09日

今こそ心の教育を① 向山洋一氏



「道徳の授業など必要ない」と思ってきた。
 教育は多かれ少なかれ、国家の方針を反映する。国家の方針を反映しない教育方針は、ありえない。
 私は、日本の国家の方針に反対であった。「安保」に支えられた日本の「主権」は。どこかいびつであると思っていた。

 2
「いびつ」な国の姿を「正しい」とする「国家の方針」は、どこか「いかがわしさ」があると思っていた。
「いかがわしさ」の代表が、「道徳」であった。
 数学も理科も、それは「真理」の反映である。社会科、国語だって「いかがわしさ」を含むにせよ、多くの「事実」を内
包している。
 が、「道徳」は、「理想そのもの」だ。
「いびつな国家」を支える「いかがわしい思想」は、「ない」方が望ましい。


 私の青春した時代は、まだ「戦後」を色濃くひきずっていた。
 戦争中のように、教育によって「軍国主義」の思想に傾けられるのはたまったものではない。
 そのような「主義」は、「ない」ほうがいい。多くの教師も、私と同じ意見であった。
 

だから、私達の時代に、「どのような道徳の授業をすべきか」という議論はない。
 あったのは、「道徳を特設すべきか否か」という議論である。


 日本の教育制度の中に、「道徳は特設され」、授業は始まった。
 が、多くの教師は、道徳の授業をしなかった。私は、ほとんどやった覚えがない。
 道徳の授業は、教育界の片隅で、どちらかといえば「変わった人々」によって実施されてきた。議論の対象にならない実
践は、活力を持たない。
 「道徳」の授業は「白々しい」、「活力のないもの」になっていった。
 私は、それは、それでいいと思っていた。
 が、あまりにも白々しすぎる。もう少しは、ましでいいだろうということで、
箱根の道徳会議が開かれ、私がそのまとめとアピールという形にした。
 ここでは、「白々しい道徳の授業」からの脱皮が考えられていた。


 が、実は、私の心の奥底では、もう一つの別の考えが存在していた。

それは、「正しいことは正しい」と教えることは、大切なことだと思っていたからである。

「叱る」べきことをきちんと叱らないで、長々と「話し合い」をさせることは、馬鹿馬鹿しいことだと思っていた。
「帰りの会」とやらの「反省ごっこ」は、実は人間を駄目にすると思っていた。
 反省は、ある種の真剣さ、緊張感があってこそ意味があるのに、「帰りの会」には、ダラダラした白けた時間が流れていたからである。

 6
 私自身が、「弱いものをいじめるな」とか、「人に迷惑をかけるな」という、いくつかのことを繰り返し言われてきたのである。
 これは、むろん、私だけのことでなく、多くの日本人にとって当たり前のことだった。
 暗黙の「社会の規範」が存在していたのである。
 その源は、親から子へ伝えられてきたわが家の方針であったり、生き方であったり、あるいは、宗教上の教えや儒教の教えであったりしただろう。しかし、そうした「教え」は、日本中のどこにも存在していた。空気のようなものだった。

『生き方の原理原則を教える道徳教育』(向山洋一監修 明治図書)より


0回すごい!ボタンが押されました

コメント

※コメントを書き込むためには、ログインをお願いします。
New TOSSランド