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TOSSランドNo: 6077934 更新:2013年10月10日

一 小さな「けじめ」を大切にする            野口芳宏


1 「心の教育」とは、「人生観の教育」の謂である

 道徳教育という言葉もあり、道徳の授業という言葉もあり、それぞれの現在の学校で毎日のように実践されているというのに、何を今さら改めて「心の教育」なとど言いだすのか、と言う向きもあるに違いない。生徒指導という言葉も生徒指導という言葉もあり、それらもそれぞれに実践されている。人権教育、同和教育という言葉もある。それらをそれぞれ十分にやれば、あえて「心の教育」などという別の言葉を言いださなくていいではないか。またぞろ、学校は新しい言葉にふりまわされることになりかねない。~そんな言葉も聞こえてきそうな気がする。小学校現場でだけ38年間の教師生活を全うした私には、教育現場の多忙さも複雑さもよくわかっている。わかりすぎるくらいにわかっている。
 しかし、そうであってなお、私はこれまでに用いられている様々な教育概念、教育用語では飽き足らず、やはり改めて、敢えて「心の教育」と言ってみたいのである。言わなければならないと思っている。そこで、私がそのように主張する背景と真意をここに明記しておくことにしよう。

① 道徳教育は、有名無実に近い

指導要領第1章【総則】第一の2には次のように書かれている。

 学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うものとし、道徳の時間はもとより、各教科及び特別活動においても、それぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。
  道徳教育を進めるに当たっては、教師と児童及び児童相互の人間関係を深めるとともに、豊かな体験を通して児童の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。また、家庭や地域社会との連携を図り、日常生活における基本的な生活習慣や望ましい人間関係の育成などにかかわる道徳的実践が促されるよう配慮しなければならない。

 ここに誤りなどあろうはずがない。書いてあることは尤もであり、洩れも、落ちもなく、行き届いている。しかし、一体
何をやればいいのか、ということになるととたんにわからなくなる。「どこでも、いつでもやれ」ということなのだが、そ
れは結局「どこでも、何も」しにあことにつながりがちである。指導要領に代表される公用文書、公式文書というものには、
落ち度もないかわりに特色にも個性にも乏しい。毒になどなりっこないが、これでは薬にもなりそうにない。空気みたいな
もの、水みたいなものになっているから、ここから具体的な行動を起こそうとということには、なかなかなれないのである。
かくしてその実体は「有名無実」に近くになってしまうのである。

② 「道徳」の授業は、「授業ごっこ」に近い

 現場生活38年の私のスタートは昭和33年である。この年4月から小中学校に「道徳」の時間が特設されることになった。同年8月、学教法施行規則の一部が改正され、教育課程に「道徳」が加わり、4領域構成となった。「道徳」の時間は、「各教科、特別活動、学校行事」の3領域と密接に関連を持ちながら、これを「補充・深化・統合」して、児童生徒の望ましい道徳的な習慣・心情・判断力を養い、道徳的知見と道徳的実践力の向上を図る、とされた。これまた、非の打ちどころのない立派な特設ぶりである。この趣旨がそれぞれの教室で具現されば言うことはないのだが、その具現は、ほとんど惨憺たるものだと言われても仕方がないだろう。
 特設道徳の成果は、あまり上がっていないようだ。例えば、「少年非行」は、着実に増加し、とどまるところを知らない。いじめ、怠学、禁煙、不純異性交遊、恐喝、けんか、万引きなど、不気味に着実に増えている。一体「道徳」の授業は、どうなっているのだろう。私は、つい先日まで小学校の現場に職を奉じていたから、「道徳」の授業をたくさん見てきたし、その授業研究会にも同席してきたのだが、率直に言ってそれらの多くは、子どもの心の底を耕し、掘り起こすということよりも「授業」としてそれがどう整っていたのかというところに関心が集中してしまったようにおもう。やや極端な言い方がだが、私に言わせればそれは先生方の「授業ごっこ」に近いものになっていた。例えば子どもは「正義」ということを教えるならば、教師の体験を語り、子どもに感想を言わせる方がずっと単純で効果的で印象深いのに、わざわざさし絵を拡大してみたり、紙芝居を作ったりという、どうでもいいことに勢力の大方を費やし、資料がどうの、発問がどうのということを議論しあって終わっていた。そんなことにうつつぬかしている間に子どもはどんどん非行の道への歩みを早めたと言ってもよい。大学生に、小、中学校時代の「道徳」の授業の印象や思い出を問うても、ほとんど学生が忘れてしまって心にその痕跡をとどめていない。

③ 教える教師に「哲学」がない

 教育というものは、基本的に「現世を嘆じ」「先行きを憂え」「国家の将来を憶う」という、教師の「哲学」に支えられて生まれるものである。理科や算数でそれをしろとは言わないまでも、少なくとも「道徳」の授業ではそういう教師の「哲学」がなければならないだろう。「人生如何に往くべきか」という、深い洞察と、国家の未来への熱い思いとがなければならない。
 おそらく、「道徳」の授業に臨む教師に欠けていたのは、そういう「大義」であり、「情熱」であり、「至誠」であり、「哲学」であっただろうと私は思う。その時、その場での「友情」だとか、「人類愛」だとか、「思いやり」などというこま切れフィルムの継ぎ接ぎのような授業をいくら続けても、その底に流れる教師の「願い」を読み取れない時、子どもはその授業からの感化を受けることはしないだろう。

④ 心の教育―はそれら問題点への新しい肉迫である

④ 心の教育―はそれら問題点への新しい肉迫である
 諸々の問題をかかえてきているこれまでの実践の歩みに対して、「心の教育」は、もっと広く、もっと深い、根源的な問いと情熱を持って肉迫してみようという新しい視点を提供するものである。
 人は常にある「行動」をしている。良い行動もあり、悪い行動もあるが、それらは、その人の「判断」によって生まれている。「行動」の基になるのはその人の「判断」である。そして「判断」にもまた良し悪しがあるが、それを決めるのはその人の「価値観」である。「価値観」にもまたいろいろ相があり、層がある。現代は「価値観が多様化」していると言われる。「価値観」が揺れている、とも言える。その「価値観」を決めるのは、その人のつまりは「人生観」である。かくて、人の行動は次のような構造によって決定されるということである。
 行動←判断←価値観←人生観←時代、社会、学校、家庭、友人等
 つまり「人生観」を教えるところが「心の教育」なのである。「よい人生観」「高い人生観」「真当な人生観」の形成こそが「心の教育」の最も中核にならなければならないのである。一人一人の子どもに「すぐれた人生観」を形成してやることが、国家百年の大計に培うことになるのである。国民の一人一人が、すぐれて確たる人生観を持つならば、その国家は世界に冠たるものとなり、時空を超えて盤石となるであろう。「心の教育」は、すなわち「人生観の教育」であり、それは「国家百年の大計」に足る大事である。そして、これまでの小中学校の教育の中には「人生観の教育」という視点は至って希薄であったのではないか。「心の教育」に、私はこれからの夢を託している。

2 「心の教育」には、「けじめ」が必要である

「心の教育」とはつまりは「人生観の教育」なのだと私は書いてきた。「よき人生観を培う」ことが、おそらく「人間形成」「人格形成」の根本課題であろう。いかにしてそれを具現するかということになると、これは決して易しいことではない。「心の教育」にどのような構造を持たせるかということ1つ取り上げたって、議論は百出するだろう。そして、またぞろそのような議論に踏み込んでいる間に、子どもの非行はとどまることなく進んでいくに違いない。
 ここでは、その議論をしばらく描き、手っとり早いところで子どもの心に、強く、太く、確実に「けじめ」を持つことの大切さを刻みこみ、「けじめ」を自らの血肉として生きるようにしよう。そのための実践論を。体験に基づいて提起してみたいのである。

①「けじめ」とは「守るべき区別」「当然の区別」

 「けじめ」とは「知性」であり、漢語にその該当がない。「広辞苑」では次のように説いている。

 ①区別。わかち。わけめ。公私の。②道徳や慣習として守らなければならない区別。長幼の~。~を守る。③へだて。しきり。几帳ばかりを~にて。・~を食う(人に疎外され卑しめられる)・~を付ける(して良いこと悪いことの区別を、態度や行動ではっきりさせる)

「心の教育にはけじめが必要だ」という場合の「けじめ」は、広辞苑で説く②の意味に当たると見るべきだろう。わかりやすく言えば、「守るべき区別」ということである。それはまた「当然の区別」と言ってもよい。その集団に属する者が、例外なく守らなければならない当然の「区別」がけじめである。「区別」というのは、「違い」であり「分ける」ことであり、「一緒にしない」ことであり、「曖昧にしない」ことである。

② けじめ」は「平等」思想によって後退

「けじめ」というのは、基本的に「区別」をその本質とする。この考え方に対して「平等」というのは、「区別」や「差別」を無くしていくことをその本質とする。戦前、戦中の日本では「けじめ」は強固な座を占め、きちんと守られていた。例えば、「男尊女卑」と言う言葉堂々とまかり通っていたし、地主と小作人の間には明確な「けじめ」がつけられていたし、官拳軍部は普通市民とは一線も二線も画して権威をふり廻していた。大家と店子、師弟、兄弟、雇主と使用人などの間には厳然とした「けじめ」があった。そして、誰もがその「けじめ」を守っていた。
 しかし、戦後民主主義は、新憲法を作り「法の下の平等」を明文化し、「両性の平等」をはじめとしてそれまでにあった「けじめ」を取り払っていた。むろん、それらは制度的に存在した「悪しきけじめ」を払拭していくことであり、我が国を文明先進国として前進させる上に大きな役割を果たしたものである。ただし、万事についてその裏表があるように、このように、このように制度改変におる前進の面と、その思想の行き過ぎによって、本来失ってはならないけじめまでを失っていくことになった弊もある。そのことによって生まれてきた弊を我々は今見つめるべき時に来ている。

③ 「けじめ」を忘れた混乱

 例えば「尊属殺人」についての考え方である。50年、最高裁は「尊属殺人が加重犯である人類普遍の道徳原理、すなわち自然法に基づくから、基づくから、憲法6条の平等原則には違反しない」という班決を下した。ところが、73年に最高裁は、この扱いを「不合理な差別的取扱い」に当たるとして、加重犯扱いを意見とした。そこで、現在は「尊属殺人規定」は適用されていない。つまり、尊属殺人は、一般殺人と基本的には区別されなくなった。かつて、「親を殺す」ことの罪の大きさと、一般殺人のそれとの間には「けじめ」がつけられていたのだが、それが今はない。法律上のことなので門外漢の私には難問題ではあるが、このような考え方が「親子関係」の「けじめ」を揺さぶることは必至である。
 私の子どもの頃には、先生に会って挨拶をしない子は誰の一人もいなかった。みんなどの子も大きく、元気に「おはようございます」とか「さようなら」とか言ったものである。それはいつだって、「子どもの側から」なされていた。
 挨拶は「子どものほうからする」のが「当然」であった。先生は、その挨拶を受けて挨拶を返すのが「当然の」ことであったが、今はむしろ教師の方からすべきだということになってきているようだ。これなども「けじめ」の消滅である。教室の入り口には前と後ろとがあり、前の入り口は「先生用」というのが、私が子どもの頃のきまりであり、そういう「けじめ」が守られていたが、今はまったくそういうことはない。いろいろの「けじめ」が消滅していくことは面倒でなくていいように思う。その方が快適であるように思われる。だから、「けじめ」は、いろいろの場で、消滅していく方向にある。
 大学生でも、教官の私に「お早うす」と言う者がある。体育部の仲間との挨拶と、教官への挨拶との「けじめ」がつかないのである。コンパなどで料理が運ばれてくると、まず自分のを確保する。「まず先生」という「けじめ」がつかないらしい。「けじめ」なんか患わしいからいっそ、みんなない方がいい~のだろうか。私はそう思わない。「けじめ」をもっと
復活させなければならないというのが私の考えである。
 挨拶は子どもからすべきである。そういう「けじめ」を身につけさせたい。「お早うす」ではなく、「お早うございます」と言葉を違えて言う「けじめ」が欲しい。他人とのけんかの果ての殺人と、尊属殺人との罪が同じであったはずはない。親というものが、子どもにどれほど大きな愛を注いで育ててきたかを考えればそれは自明のことであるのに、そういうことが、法の下でも「けじめ」を無くしていく方向に動いている。これは由々しきことだ。

④ 秩序の根幹としての「けじめ」

集団で社会生活を進めていく以上、その集団の中で秩序が保たれなければならない。秩序を作り、その秩序が守られて
初めて生活は安定し、相互の協力ができる。公務員も会社員も、出勤時刻と退勤時刻が定められ、それに違反すれば制裁を受け、ペナルティーを課させられる。そういう規定がなければ「けじめ」がなくなり、「秩序」が破壊され、集団や社会は混乱に陥り、やがては破壊に追い込まれる。
 学校でも、学級でも「けじめ」をはっきりつけていることが必要である。宿題をやってこなかった者に対しては、きちんろそれをやりとげてから下校するというようなことは、昔の学校では当然のことであったが、今はそういうことがやりにくくなっている。宿題をしてこなかった子どもに「けじめ」をつけさせようとしても、ひょっとすると、「プライバシーの侵害」などとも言われかねない昨今である。このように「けじめ」をつけないままずるずるとその日その日を送っていくと、やがて「けじめのない子」に育っていく。「けじめ」を「かったるいこと」と感じ、それに従わないことを当然と考えてしまう。一見小さなことのようだが、そういう子どもの数が多くなること、そういう子どもがそういう考え方で大きくなっていくことは、末恐ろしいことである。

⑤ 小さな「けじめ」を大切にする

 諺は「鉄は熱いうちに打て」と教えている。「悪の芽は小さい内に摘め」とも言う。「火は小さな内に消すこと」が鉄則である。「けじめ」の心は、小さい時から、小さなことで、確かに養っていく必要がある。小さいことを疎かにすると、や
がてそれは取り返しがつかない結果となって返ってくる。せめて「自分のクラス」の中では、「けじめ」をきちんと教えて
いこう。それは、その子のこれからの長い人生にとってきわめて有益なことになる。「けじめ」のつけられない者が、社会
で大事にされる筈がない。小さなことも満足にできない者に、大きな仕事なんかを任せるわけにはいかない。例えば、次の
ような「小さなけじめ」をクラスや学校に確立していくことが肝要である。

ア 時刻を守るという「けじめ」

 遅刻というのは初めの指導が肝要である。1回目をこっぴどく叱り、こりごりさせるべきだ。2度、3度と重なってから
の指導は、矯正を次第に困難にしていく。休み時間を遊びすぎて授業時間に遅れた時も、最初を大目に見ると急速に「けじ
め」がなくなっていく。掃除の時間、給食の時間、それらを崩すと「けじめ」は消滅していく。

イ 忘れ物をしないという「けじめ」

 学習用具が足りなければ、学習はスムーズに展開しない。これもまた、忘れたその時の指導が肝要だ。「忘れた」原因を
自覚させ、その打開対策を自分で考えさせ、それに向かって努力するよう強い指導をしなければならない。教師もまた、「け
じめ」を大切にすべきである。厳しい指導こそが、やがてみんなが楽しいクラスを生みだすのである。

ウ 返事と挨拶を「いつでも明るく」するという「けじめ」

 面白くないからぶっきらぼうに、楽しいから明るく、という挨拶や返事ではいけない。挨拶や返事の仕方そのものがその
日の出会いや生活を明るくするも暗くもするのである。心の状態の如何にかかわらず「いつでも明るく」という「けじめ」
をつけさせるのである。不快な心、我がままな心をふっ切る「けじめ」が大切なのである。

エ 過ちは自ら償うという「けじめ」、自分のお金で始末をつける「けじめ」

 不注意で学校のガラスを割った場合、学校の修繕費でそれを償うのがどうも一般的であるらしいのだが、私は38年間を
通じ、一貫して個人弁償制をとってきた。公共物を壊して平然としているのは許せないし、許してはならないだろう。「弁
償する」という「けじめ」は当然のことである。そういう「けじめ」のつけられる子が頼もしいのであり、望ましい市民に
なっていくのである。しかもその弁償は、「自分の持っている小遣いで」という「けじめ」も大切である。小遣いというも
のは、そういう不慮のことにも備えて大切にしておくべきものなのだ。


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