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TOSSランドNo: 2310160 更新:2013年01月05日

授業で使えるエピソード集6「10代で熱中したこと」


エピソード1 (北海道・男)

10代は、音楽に熱中していた。そして、夢があった。バンドを作り、ドラムを叩きたかった。家が狭く、買えなかった。中2の時とりあえず買ったギターに、のめり込んだ。高校1年、2人でグループを組み、学校際で演奏した。友達がギター、自分はなぜかベース。高校3年、3人組で、このときはリードギター。10代にもったささやかな夢がかなったのは20代だった。教師になった1年目、職員バンドを作った。
担当はベースとボーカル。2校目は、バンドができる環境ではなかった。何を思ったか、1人で多重録音し、1曲完成した。ドラム(リズムボックス)、ベース、キーボード、ギター、そしてボーカル。レベッカの「ラブパッション」という曲である。4校目(実は30代)、バンドを作り、学校祭で演奏した。1年目はベース担当。翌年、ベースマンが転勤してきたため、ドラムに転向。井上陽水・奥田民生の「ありがとう」。3年目、スピッツの「空も飛べるはず」とkiroroの「長い間」。町の音楽祭にも参加する。同僚の結婚式では、kinki kidsの「全部抱きしめて」。久々のギター担当だった。昨年、選択音楽をとった生徒が詞を書いた。それに曲をつけた。生徒が演奏できるコード進行で。
またやってしまった、1人多重録音。選択音楽の生徒は、それを聞いて喜んだ。10代の頃、自分だけの夢として抱いたバンド願望。今では生徒と盛り上がり、そして生徒とともに曲を作っている。

エピソード2 (岩手・女)

不完全燃焼の高校生活。その最後の年、モヤモヤした気持ちの中で無性にやりたくなったのが「バレーボール」でした。実は、中学校の2、3年生をバレーボール部で過ごしたのですが、そのときは嫌で嫌でしようがなかったのです。剣道部が廃部になったための途中入部で、パスとかレシーブとかいった基本が全然できません。同級生と同じ時期に教えられたスパイクや、先生に個人指導されたサーブは何とか人並みにできたように思います。変化球サーブで点数をとれたためか、スターティングメンバーとして試合に出させられました。でも、私にとって試合は「恐怖」以外の何者でもありませんでした。「失敗」が怖かったのです。「優等生」で親以外に怒られたことのなかった私にとって、「失敗」ほど怖くて惨めで屈辱感を感じるものはありませんでした。しかも、試合になると必ず失敗をしました。サーブレシーブが一番ひどかった!あんまり下手くそなので、私に向かって飛んでくるボールは、他の人が私の目の前に来てレシーブするようになりました。下手は下手なりにプライドがあったのですが、何も言えません。高校生になって(バレー部に入ろうか……)とも思いましたが、「失敗が怖い」「怒られるのが嫌」という理由で、私は映画部、美術部に逃げてしまいました。高校生活は、いろんなものから逃げ回った3年間でした。勉強からも、友達からも…。それで、「不完全燃焼」です。ところが、大学受験の勉強をしながら、何だか無性にバレーボールがしたくなってきたのです。(大学に入ったら、バレーボールをやるんだ!怒られたって、選手になれなくたってかまうもんか!私はバレーボールをやる!)そう心に決め、大学入学後、即バレー部入部。しかし、やはり下手は下手。アンダーハンドパス、オーバーハンドパス、自信のあったサーブまで全て先輩から直されました。全国の大会に出るような強いチームではありませんでしたが、教育学部があるので、体育科の先輩や同級生が大勢いました。女子の同級生は私の他に背の高い女の子が一人だけでした。一年生の秋からその友達は試合に出るようになりました。分かってはいるのだけれど、悔しかった!練習でボールが取れないたびに、転がったまま「ちくしょー!」と床をたたきました。男子の先輩が「女の子は『ちくしょー』なんて言わない方がいいぞ」と言ってくれました。でも、私の中の「ちくしょー!」は消えませんでした。下手くそ、試合に出られない、貧乏、等々……様々な劣等感!こんな気持ちは誰にも分からない…。そんな中、一筋の光が!!!コーチの一言、「おまえ、セッターやらないか?」(!!!試合に出られる!)そう思った私は、一も二もなく「はい、やります」と即答です。その日から、コーチの特訓を受け、猛練習です。女子の練習が終わってから、男子の練習にも入れてもらいました。男子のエースのスパイクを顔面レシーブ、なんてこともありました。女子の仲間やコーチ、男子の先輩、同級生、みんながバレーボールを教えてくれました。立候補してキャプテンにもなりました。もう、やる気満々です。そんな生活を一年間続けました。110日後にいよいよデビュー戦を控えたある日、何だか足が思うように動きません。それでも、セッターがいなければ練習になりませんから、声を張り上げて自分の気持ちを奮い立たせます。試合形式の練習でした。相手からチャンスボールが来ると同時にバックからネット際に走ります。何だか、よく覚えていません。誰かと接触したかもしれません。私は足首に激痛を覚え倒れ込んでしまいました。「十日は運動しないでください。」と言われました。捻挫です。試合に出られません。急遽、後輩がセッターをすることになりました。トスはあまり巧くありません。でも、170センチある彼女にはブロックができる…。身長155センチの私には…。自信が揺らぎました。どちらがチームのためになるのだろう…。今思えば、何も迷う必要はない、自信をもってセッターを続ければ良かったのです。ブロックが出来なくても、私には私の良さがあったはずです。でも、そのときの私には自信がありませんでした。足のけがは治りましたが、心のけがの方が痛手でした。コーチも悩んだのでしょう。悩んでいる、迷っている私をコートの中には置きませんでした。みんながスパイク練習をしているときに、ボール拾いをしているキャプテンです。一緒に練習させてくれた男子たちが「負けるな!がんばれ!」と励ましてくれます。コーチは「おまえはキャプテンなんだ!キャプテンのおまえが人一倍声を出さなきゃダメなんだ!」と言います。涙をこらえながら、必死に「ナイスキー」とかけ声をかけます。おなかに力を入れないと、泣き声になってしまいます。結局、大学4年間で私はほとんど試合に出られませんでした。ベンチで声をかけるキャプテンでした。でも、いっぱい勉強させられました。私のバレーボール人生は、36歳の今、現在が絶好調です。不思議と、自分という「人間」に自信を持つようになってから、プレーが安定するようになりました。不平、不満が消えてから、体が思うように動きます。この年になってフライングレシーブが出来たりすると楽しくて仕方がありません。バレー部の顧問として中学生の試合を見ると、試合の勝敗を分けるのはやはり「心の強さ」だなと思います。「失敗」の考え方、選手の生かし方、すべて過去の体験が参考になります。苦しかったけれど逃げないでよかったと、心の底から思います。今、当時の仲間だったみんなに感謝しています。

エピソード3 (北海道・男)

高校時代、芝居づくりに熱中していた。授業が終わると、部室に行き、仲間とともに暗くなるまで練習に励んだ。脚本、衣装、舞台装置、小道具。何もかも、自分たちでつくり上げた。自分たちでつくり上げるのが好きだった。コンビニの弁当を食べながら、納得のいくまで話し合うのが好きだった。他校には有名な顧問の先生がいて、顧問の書いた脚本をもとに、顧問の立てた計画にのって、無駄のない練習を重ねていた。それに比べると、私たちは無駄ばかりだった。演技技術のない、穴だらけの芝居だった。日付が変わるまで練習するなど、無茶なことばかりやっていた。でも、自分たちの熱意をそそぎこんだ。その自信だけはあった。高校3年、最後の全道コンクールにのぞんだ。力いっぱい演技をした。仲間とつくり上げた芝居を、心から誇りながら演技をした。しかし、他校の芝居を観れば観るほど、その技術の差に圧倒された。最終日。審査発表。全国行きの一枚の切符を手にしたのは、なんと私たちの芝居だった。穴も欠点も多いが、それをはるかに上回る感動があった。審査委員の方がそう言った。心から嬉しかった。仲間と、何度も何度も抱き合った。

エピソード4 (山口・男)

ズバリ、ギター!!高校1年の冬、憧れのエレクトリック・ギターを購入。毎日3時間は弾いていた。休日となると本当に朝起きてから寝るまで。どんなに「勉強しろ」と言われてもしなかったが、どんなに「ギター弾くな」と言われても弾きまくっていた。やりたかったのはハード・ロック。日本のポップなロックや歌謡曲、弾き語りにはこれっぽっちも興味がなかった。(今はどれも大好きです)特に洋楽のDeep PurpleやRainbow、Iron Maiden、Megadeth、Yngwie(イングヴェイと読みます)、Aerosmith、Dream Theater…。10代の私のヒーローは、みんなハード・ロック・ミュージシャン。本気でこの道に進みたいと思っていた。それなりにまわりの人からも一目置かれるぐらいにはギターが弾けるようにはなったが、やはりプロの世界の厳しさは、10代の若者なりに理解していた。「ギターはこれからも弾き続けよう。 練習しまくろう。でも仕事にするのはやめよう。別の道に進もう。」大学進学後、たくさんのバンドを作り、ライブも数多くおこなった。貴重な経験をたくさんさせてもらった。一時は仲間といくつかオーディションを受けたりもした。メンバーの中には、プロデビューしたものもいる。が、私は私で、「やはり今の教師という道を選んでよかった」と心から思っている。

エピソード5 (北海道・男)

小学生の頃、近くの駅に行くのが日課であった。いつも1歳年上の兄と一緒に行った。通り過ぎる列車を見るためであった。そこで1日を過ごした。当時はよき時代で、駅員さんがジュースをおごってくれたり、使用済みの切符をくれたり、貨物列車の運転席に座らせてくれたりした。小学高学年の私にとって、国鉄で働く人々は憧れであった。小学校の卒業アルバムには、「将来の夢は国鉄マン」と書いた。駅通いは、中学2年生まで続いた。当時、憧れていた特急列車があった。函館発釧路行きの特急「おおぞら号」であった。13両編成の長い車輌で、途中には食堂車があった。1度でいいから、その食堂車を利用したいと思っていた。しかし、その夢は叶わなかった。鉄道から飛行機に交通手段が変わった現在、食堂車はどんどん姿を消していった。残るのは、北海道と本州を結ぶ寝台列車3本だけである。その中でも、札幌から大阪へ向かう「トワイライトエクスプレス」は、1度は乗ってみたい列車である。「トワイライトエクスプレス」の食堂車は「ダイナープレヤデス」と呼ばれている。完全予約制で、フランス料理のフルコースが1人1万2千円。これにワインを加えると、夫婦で3万円近くになる。残念ながら、味の評判は良くない。しかし、夕日が沈む日本海を眺めながらいただくフランス料理は格別であろう。これが、私の「やってみたいささやかな贅沢」である。

エピソード6 (千葉・男)

中学時代から自転車が好きだった。10km四方の近所の道は走破した。日帰りで、80km程度は走った。高校1年のとき、友人が捨ててあった部品を拾って、自転車を組み立てた。私も、自転車を改造し、塗装した。ツーリング用である。タイヤを太めにし、ハンドルバーをストレートタイプにした。その夏、友人と二人で箱根に行った。ユースを予約し、11泊の自転車旅行。箱根の16km続く登りはこたえた。そのころから放浪癖がはじまったのかもしれない。現在はオートバイのツーリングにはまってしまっている。

エピソード7 (埼玉・女)

高校に入って、何気なく入ったマンドリン部。かわいらしい形と音色にすっかりまいってしまいました。胸にひしと抱きしめて弾くと、自分の肋骨の一部でもあるかのような気がしてくるのです。オーケストラとしてのマンドリンなので、集団演技が要求されます。中学校時代、お山の大将みたいに、わがままのし放題だったので、人とのつきあいがまったくできていませんでした。マンドリン部で人間関係を、勉強しました。使う楽譜はすべて、手書きです。休み時間や昼休みはもちろん、授業のひまをぬっては必死でオタマジャクシを、写しつづけました。練習していると指の皮がむけたり、腱鞘炎になるのも楽しく、手首にこぶができたこともありました。合宿などで一日じゅう譜面とにらめっこしていると、白い壁に譜面が見えてくるときもありました。物を知らない体育系担任に、「バイオリン」ばかり弾いていて・・・、とクラスの前でイヤミを言われ、一念発起。英語・数学・化学だけは、人並みに勉強しました。(蛇足)大学でもマンドリン部で、その後、半分プロのクラブに入りました。しかし、ステージでの「お仕事」と教師業は両立するほど生易しいものではありません。かといって、いまさらアマチュアのクラブではとうてい満足できるものでもありません。どちらかを選ぶしかありませんでした。教師業をとり、その後まったく触れることなく過ぎています。テレビからマンドリンの音色が聞こえてくると顔見知りがいないか、とじっと探してしまいます。

エピソード8 (島根・男)

小学校からずっと野球をしていた。小学校のときは、名古屋市で開かれた全国大会にも参加した。キャッチャーだった。中2の新人戦で「控え」に回された。一年生にレギュラーをとられたのである。悔しくて泣いた。キャッチャーミットには「屈辱」と書いた。家でなく私の姿を見た母は、「練習をしよう」と私を近くの畑に連れ出した。私から35メートルくらい離れたところに立ち、母は言った。「セカンドベースだと思って思い切ってボールを投げなさい。」私は何十球もボールを投げた。その日から毎晩100本、200本の素振りも始めた。雨の日も、雪の日も素振りをした。冬、春と過ぎ、夏がやってきた。私はホームベースの後ろで再びキャッチャーミットを構えることができるようになった。このときの純粋な気持ち,ささやかな成功体験が大人になった自分の支えになっていることも確かだ。

エピソード9 (岡山・女)

小学校6年生の時の担任は、若い女の先生。厳しくて優しいその先生に憧れて、小学校の先生になりたいと思った。中学校3年生の時の担任は、若い男の先生。いわゆるワルにも人気があったその先生が好きで、”私も中学校の先生になって、T先生と一緒の学校で働きたい” と思った(動機が不純・・・)。高校に入って少し冷めた自分がいた。学校も先生も好きだったが、”先生なんて大変な仕事、私にはできない” と思った。だから、大学は教育学部には進まなかった。でも、教員免許はとった。心のどこかに”先生”への夢があったのだろう。声優、アナウンサー、憧れはいろいろあった。でも ”熱中” してまで目指したものはない。あれやこれや、広く浅く何でもやってみた10代だった。その時その時は一生懸命だったが”これだけは” と言えるものがない・・・・。遅ればせながら、教員採用試験に合格した。これからは、教師の道で頑張ると決めた。10代で自信をもって”熱中した”と言えるものがなかった分、これから教師という仕事に熱中したい。熱い思いを持ち続ける教師になりたいと思う。

エピソード10 (長野・男)

僕が熱中したのは、バレーボールだ。部活動でやっていたバレーボール。中学に入学し、すぐに始めた。3年生のプレーに憧れた。そのうち、月刊誌も講読するようになった。同じ中学生の記事は少なかったが、高校生や全日本のプレーヤーの記事を読み連続写真を何度も見ては、プレーをイメージした。幸運なことに、僕の町はバレーボールが盛んだった。全日本の選手が合宿に来たりした。練習を見るために、あちこち体育館を自転車で回った。国体も行われた。優勝チームが、一緒に練習をしてくれたこともある。バレーボールっておもしろいって本当に思った。家に帰ると毎日縄跳びを必ず1000回行った。ジャンプ力をつけるためである。身長は160センチしかなかったがバスケットボールのゴールリングに触りたいと思った。直上バスも毎日100回行った。誰よりもパスが上手になりたかった。休みの日には仲間とランニングもやった。体育館には誰よりも早く行って、一人でサーブを打った。いつからか「お前は二重人格じゃないか」と仲間に言われるようになった。「バレーボールをやっているときの顔と普段の顔はまるで違う」と言われた。「バレーボールをやっているときのお前は、鬼のようだ」とまで言われた。今、考えるとあのときがあったから「本気になる」ということを身をもって学んだように思う。すべてがバレーボールに向いていた。それしか考えられなかった。今は、もうそんなことができない・・・。昔の自分をなつかしく思っている・・・。

エピソード11 (広島・女)

10代に熱中したもの。それはNHKのラジオ「英会話入門」である。大学2年の5月,ある朝目覚めたときのこと,いつもはFMに合わせているラジオがなぜかAMになっていた。飛び込んできたのがさわやかで歯切れのよい講師の英語。「うゎっ,いいなあ~」といっぺんに好感をもった。ほどなくテキストを入手して聞くようになった。聞こえてくる英語の後について繰り返す。聞き取れる。楽しい。繰り返せる。楽しい。覚えちゃう。楽しい。何になろう,というのではない。資格を取ろうというのでもない。そんなのは後からついてくること,という気がした。ただひたすら,英語を声に出すのが楽しいという状態。毎日の数行のスキットを聞こえたとおり繰り返し,声に出して読む。蓄積しつつある,という手応えと充実感があった。英語クラブにも顔を出したりしたっけ。そんなある日,使い込んでいたテープレコーダが壊れた。学生協に修理に出して,これでしばらく英語の勉強が出来ないと嬉しいような悲しいような気持ちでいたら,生協のおじさんが言ってくれた。「勉強しようなんて殊勝な気持ちでいる学生は珍しい。その気持ちが変わらないうちに別のを貸してあげよう。」きっかけなんてどこに転がっているか,わからない。


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